好きな本について:『白昼のスカイスクレエパア』

 誕生日だし好きな本について話そうかなと思って、この本の話を。日本のモダニズム詩を牽引した北園克衛による短編小説集。去年の誕生日のときにほしいものリストから送っていただいた本で、可及的すみやかに読んだのだけど非常によい本だった。贈っていただいた方にはお礼と簡単な感想をそのとき直接伝えたのだけど、ちゃんとした感想は文章で残していなかったなと思ったのでここに書いておくことにする。
 最初の「セパアドの居る家」(この言葉の響きから小説を書こうとする小説家の話)から、詩人の書いた文章だ、という感覚があった。これは第一には、作中で語り手が「セパアドの居る家」という言葉のイメージから連想する単語や光景といった言葉選びの引き出しの豊かさによるものなのだけれど、第二には、そうして引き出される単語や文章という視覚的、記号的な文字情報から想像されうるイメージに自覚的な文体そのものに感じられた。ただ綺麗なものを並べただけではただ綺麗なものが並ぶだけで、それらがどのように読み手に作用してひとつの像を結ぶのかという部分への気配り、自覚のなかにこそ作者の美意識は宿る。
 話としてはキザな主人公と上品なただずまいの女性とのメロドラマみたいなものが多いのだけど、「パアラア」「ショファ」「コンクリィト」といったふうにフランス語も英語もまとめて外来語としてカタカナで表される“昭和モダン”な文字の並びや、牧歌的な大らかさのある時代的な雰囲気とあわさって嫌味にならず、独特のほの明るさと空気感を湛えてひとつの文体のなかにまとまっている。「静かな遠景が、シルエットになって貝殻の中に落ちてしまうと、夜が来る。星と家家の灯とがいり混って夜の空を二倍に見せる。それは早朝の薄明の頃まで続くのだ」(p.41)、「三月の空気が新しいプリズムの様に冷く澄んでいる」(p.192)といった端的な表現のなかに整然と同居する詩情が心地いい。
 シガレットチウヴとかオルボアとか、綴りで考えればせめてチウブだろうしオルヴォアだろうというところを、作者の美学にしたがってそのように描いているのがどの作品をも一貫した強度になっている、みたいなことを考えながら読んでいたら、途中から文章が凄すぎてそれどころじゃなくなってしまった。
 たとえば「ムッシェルシャアレ珈琲店」より以下の一節(本当はもっと長いのだが)なんかは本当に文体が鋭利すぎて完全に参ってしまった。まったく並べて語られることはないだろうけど、アンソニー・ドーアにも引けを取らないんじゃないか? と思う。
「彼は口笛を吹き始める。自分の考えに反抗するように。後頭部の鈍痛。海と空が遠い水平線で接している。深夜の波の音がする。彼の目には黒い波が顫えているように見える。それは何故顫えるのか? 地軸の方向と反対に、音楽的な潮。それを持ち上げたり、それを倒したり、それを刻々に新しく創り直したりしながら。彼の体の揺れ。重い歩調。戸を閉めた海岸街が彼らの足音をききつける。リンコは疲れている。彼女の赤い眼に沁みる灯。ホテルの高い窓に、灯が一つ消え残っている。空間に掃くような星。この八月の一夜。」pp.55f.(※ちなみにこの「ムッシェルシャアレ珈琲店」は阪本越郎との共作とのこと)
 

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