2025年3月・4月の成分表
ネタバレとかの自衛は各自でお願いします 倍率80%くらいが可読性◯
目次
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3/1
- ソポクレス『アンティゴネー』(呉茂一訳) 3/5
- リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性』(岩波書店) 3/5
- 『学園アイドルマスター GOLD RUSH(1)』(秋田書店) 3/15
- 映画『どうすればよかったか?』(2024) 3/19
- シェイクスピア『新訳 ハムレット 増補改訂版』河合祥一郎訳(KADOKAWA) 3/21
- アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』(河出書房新社) 3/30
- 例えば炎初単独「~エレガンス×傀儡兄弟×例えば炎 スリーマンライブ~「ワレワレハタトエバホノオダ」 3/30
- 『さなのばくたん。 -をやろうと思ったら異世界に転生していた件について- Powered by mouse』 3/31
- アニメ『ダンジョン飯』1期(全24話) 4/11
- 映画『カサブランカ』(1942) 4/22
- 貴志祐介『黒い家』(角川ホラー文庫)
- 振り返り
3/1
ソポクレス『アンティゴネー』呉茂一訳
『オイディプス王』に連なるテーバイ三部作のひとつ。ジュパンチッチのLet Them Rotを読む予定なので予習に。
オイディプス王と比べるとわかりやすさが際立っていて、第一印象としてはオイディプス王と比べてそこまで好みではなかった。禁忌の侵犯、アンティゴネーとクレオンという明確な対立構造等、もちろん設定やテーマ自体の強度は言うまでもないのだけど、個々の言葉選びや構成や見せ場の演出もオイディプス王のほうが冴えてるなあという感じがした。実際アンティゴネーのほうがソポクレスの執筆順序としては先なので、制作時期によるソポクレスの劇作技術の差、というところもあるのかもしれない。
ただ、もちろん、これには訳の問題もあるだろうと思う。旧岩波文庫の呉訳を読んで、そのあと現岩波訳の中務哲郎訳も読んだのだけど、どっちも古めかしくてあんまり情緒がないというか、訳注や解説は充実していてありがたいのだけど、もっといい訳はないのかしらという感じがする。おすすめの訳があったら教えてください。
もちろんギリシャ悲劇なんて読んでおけばおくだけ得なので読んだほうがいいです。読んだおかげでひぐらしのEDの対象aの歌詞がアンティゴネーをテーマにして書かれてるってことに気づけたりしたし。令和に?
3/5
リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性』(岩波書店)
アメリカの哲学者リチャード・ローティの主著。私たちの日常語彙や政治形態、社会のあり方といったおよそすべては偶然性の産物であるとして、歴史的必然性や超越的なもの、真理をその基盤に置こうとする西洋形而上学の基礎づけ主義を批判し、公的領域ではリベラルな連帯と苦痛の軽減を目的としつつ、私的領域では自らの終極語彙を相対化し、偶然性を受け入れながら自己創造を行うことを奨励する(アイロニー)。
簡単にまとめれば、「形而上学はいらない」「苦痛を減らそう」「私的アイロニーと公共連帯に分けよう」というみっつのスローガンを本書で掲げる彼の主張のポップさは、序文の以下のような箇所に端的に現れている。
・西洋哲学への理解が教科書的すぎてまったく面白くないこと
・基礎づけ主義への批判としての理論構築がほとんどなされないことで、有意味な言明もほとんどなしえていないこと
・いわゆるポストモダン哲学への理解も同様に浅く、その倫理的な側面(というより核心)を読み誤っていること
・オタクすぎること
といったところだろうか。
まず、ローティの議論の筋はおおよそ正しい。たとえばデイヴィッドソン、ウィトゲンシュタインを持ち出して「真理」の偶然性を説くのも、カント-ヘーゲル(あるいはフロイト)を超越主義、基礎づけ主義として批判するのも、まあ教科書的に見れば大枠は外していないだろう。
なんだけれど、ローティの議論は全体的にお行儀がよすぎるというか教科書的すぎるところがあって、通史的に哲学史を並べて「まあ哲学っていってもこの程度だよね」といっている感がある。個々の思想からアクチュアルなことは何も取り出さず、高校倫理みたいに個々の哲学者を粗く紹介して「こうこうこういうことになりました。で、この哲学者の試みは失敗です。私たちは小説でも読んでましょうね」という感じ。ちゃんと個々の哲学者にあたれば、カントもヘーゲルもフロイトも「任意の事物に本有的特性がある」といったローティが批判する哲学観からは程遠いし、核心においては問題意識に重なりうる部分もあることがわかりそうなものなのに、「形而上学」と一括りに切って捨ててしまっているというか。
ただ、これは彼の戦略で、思想からアクチュアルなものを読み取ろうとすること自体が真理に対する欲望、理論化しようという欲望であって、そういうものに依りかからずにプラグマティックにやっていこうという姿勢の現れでもある。形而上学にこだわってないで現実の課題を解決していきましょう、という。ただそれには同時に、基礎づけ主義を批判し放棄した結果、理論の構築すら自分から手放してしまっていて、穏当な主張しかできていないという問題点もある。ローティは政治哲学者ジュディス・シュクラーの言葉を由来として「残酷さを軽減すべきとみなすこと」をリベラルの定義とするものの、彼の政治的主張は、およそこの場所から一歩も外に出られていないように見える。従来の哲学理論を手放すことを提案する彼は、クレバーにも個々の政治的問題についてはプラグマティックに専門家に任せることを提案するのだけど、そこで個々の政治学者、社会学者は過去の哲学的知見なしに、どういった論理で、理論立てて議論をする予定なのだろうか? 残酷なことはいけない、私たちは異なる生活を営むあらゆる人たちとも連帯するべきだ、というのは、もちろん大事な話ではあるものの、大事なのはどのようにそれを実現させうるかという話であって、その程度の理想論自体は素朴な小学生でもいえる話ではないのだろうか?
けっきょく個々の哲学から有効な議論を引き出せない、表面的で教科書的な哲学への理解だからこそ「哲学はいらない」というようなことが言えるものの、彼自身が真に哲学書から大切なものを導き出しうる学者ではないという疚しい意識が(ローティ的な意味ではない)アイロニーな立ち回りに帰結しているように思えてしまう。個々の誰かにとって真に重要な何ものかが文学作品によって提示されうるなら、《権利上》、哲学はそれに説明を与えうるのに、偶然性を持ち出し、個々人の終極語彙はそれぞれだから、といって説明から逃げることを正当化している。終極語彙がそれぞれ異なるという話は、信念や心情は比喩のレベルにおいて受け取る仕方がそれぞれ異なりうる、あるいはロマン主義的な自己実現は行われうるし、その目標はそれぞれ異なりうるというレベルの話でしかなく、それぞれの語彙に還元される形で理解されうる議論を素描する可能性が存在し得ないというような相対主義的なレベルの話ではないはず(だとしたら連帯はあり得ないし、もっといえばローティの本自体書かれ得ないし、読まれ得ない)なのだけど、公私の領域を明瞭に切り分け、哲学は私的な(アイロニーの)領域であるとしてしまうことで、実質的な意味内容としては「なんとなくいい感じに」くらいの内容にとどまっているように見える。
私の批判は、別の観点からいえば、彼のいう「哲学」がきわめてカリカチュアライズされた近代のものでしかない、という点に集約させることもできるかもしれない。つまり、ポスト構造主義と呼ばれる一連の思想、俗流解釈としての「真理の否定」だとか「相対主義」とかではなく、まさに大文字の倫理、最終的審級という「基礎づけ」の不在のなかで、私たちはどのように決断し、物事を考えるべきなのか、パフォーマティブなあり方を考える意味においてのポスト構造主義について、ローティはそこまで理解があったようにはみえない。
ローティはデリダのとくに『絵葉書』を評価して、「私は、デリダの重要な意義が、彼が私的なものと公的なものを結びつけようとする試みを諦める勇気を持っていること...にあると考える」と述べるが、この観点からでは、その後のデリダのいわゆる倫理的転換がまったく理解不可能なものになるだろう。1966年に「人間科学の言説における構造、記号、遊び」の講演において、「真理」そのものを否定するのではなく、「真理」がどのように機能するのかが重要なのだと述べたデリダは、1989年のローティに20年以上先立って、ローティのデリダ理解、あるいは哲学への批判に対して釘を刺しているとも言える。
絶対的な真理がないなかでそれでもなお、を語ろうとする哲学の存在価値は揺るがないし、それらは私的領域ではなくまさに公共圏に向けて開かれたものでもある。深く学び、まさに哲学的な議論を私たちのコンテクストに鋭利に、深く接続し、歴史のなかで思考し、正しさをつねに確かめていくことこそが求められていることのはずだろう。
もちろん名著であることは確かだと思うし、読んでおくことで整理されるものがあったのも確かではある。ローティの図式を使えばVtuberの配信を見るのは連帯で哲学書を読むのはアイロニーってことになるし、まあそれは冗談にしても、ChatGPTなりのAIのほうが少なくとも知識面においてはたくさんの「ものを知っている」状況において、なんで小説とか哲学書とかを読むんですか? ってところについては、案外ローティの「連帯を求めるアイロニスト」像が役に立つのではないかという気もする。あと実際、ローティが映画や小説、詩なんかを偏愛するのはきわめてTwitterにいるようなサブカル哲学オタクに似通って見えるところがあって、哲学書を適当に読んで「まあ所詮は形而上学だよね」とかいいつつアニメや小説を読んでマジ泣きしてるような雰囲気が文章から伝わってくるところがある。そういう意味でもサブカル哲学オタクは読んだほうがいいのではないでしょうか。ナボコフの解説をしてる章もあるし。
ローティについてはまったく詳しくなかったのでこれが一冊目だったのだけど、主張は非常にわかりやすく、そこまで難しいあれこれもないので、別にこの本から入ってもまったく問題ないと思う。『プラグマティズムの帰結』とかも読んでみたいなあという気持ちはあります。この本については自分はaudibleで聴いたんだけど十分でした。
3/5
『学園アイドルマスター GOLD RUSH(1)』(秋田書店)
あ、ありがた~~~~ アイマス新規ブランドの初コミカライズ展開でこんなことしていいんですか!? を地で行く、ともすればメアリー・スーもかくやだぞという容姿端麗・幼い頃のことねと接点あり・アイドルもできる敏腕存在の犬束静紅をゼロから生やしてプロデューサーに据え、ことね一人のプロデュースにフィーチャーした破格の学マスのコミカライズ。破天荒な設定ではありつつ、いろんな表情を持っていることねの魅力に向き合って丁寧に鮮やかに描かれていて嬉しい。まあ一巻までの内容はぜんぶWEBで読んでたものの、特典オリ曲の『かちドキ』もめちゃめちゃよくて感謝が止まらない ウッス、ついていきます
3/15
映画『どうすればよかったか?』(2024)
統合失調症になってしまった姉を記録したドキュメンタリー。実際にカメラで記録していた当時の映像がつなぎ合わされてひとつの映画になっているのだけれど、劇伴やナレーションもなく、テロップもほとんどないため、視聴体験としては「知らないひとのホームビデオを眺めている感じ」で、それが案外心地よい、というか、独特な雰囲気をかたちづくっている。
出来事の筋としては、当然明るい内容ではない。姉が統合失調症を発症したにもかかわらず、医師であり研究者である父はそれを認めない。埒が明かないと姉の問題を相談した医者を紹介しようとするも、「お前が探してきて治療を進めたっていう医者の論文を読んでみたが、あれはダメだ。信用ならない」みたいなことをいう父親の姿には、たんなる医療への無理解ではない、ある種のこわばりのようなもの、簡単には解きほぐすことのできない問題が端的に現れている。とはいえ、全編そういった「意味のある」映像かといえばそうではなく、たびたび姉とのただそのままの生活の映像が挟まれていて、そこでは悲しかったり恐ろしかったりする「統合失調症という非日常」ではなく、あくまでも「統合失調症のひとのいる日常」が丁寧に切り取られている。それがこの映画に、ただ悲しかったりセンセーショナルなわけではない、ひとつの家族を描いた「ホームビデオ」としての温かみを与えているように感じる。
私は統合失調症が投薬でおおよその症状が寛解するということすらあんまり理解していないくらいには詳しくなかったので、統合失調症についての理解が深まったという点でも見てよかったし、ひとつの家族を追った「どうすればよかったか?」という問いに託された重みも、たしかに感じることができてよいものだった。
3/19
シェイクスピア『新訳 ハムレット 増補改訂版』河合祥一郎訳(KADOKAWA)
面白かった! シェイクスピアちゃんと読んだことなかったんですよね さいきん読んでる本のいくつかで言及があり進退窮まったので読んだ。
どっかで見たことあるセリフや(山のような)機知に富んだフレーズはもちろん、軽妙な会話の裏に忍ばせる諧謔や悲哀、悲劇を彩る多様な登場人物に人間模様〜と、やっぱシェイクスピアって偉大なんですねぇという気持ちです。かなりの量の充実した注も頼りに、時代状況やモチーフなどを見ながら読むのも楽しかった。
訳もとにかくよく、わかりやすくリズミカルで、それぞれのキャラクターの言葉遣いをしっかり描き分けながら、全体を通した格調の高さもある。フォーリオ版を基としながら、クォート版の内容や細かい差異の補足もすべて注に入れているのでこれ一冊で安心という感じ。何より、野村萬斎の公演のために委託され、実際のシェイクスピア劇の演劇性を重視して徹底的に吟味された訳とのことで、原文の脚韻をすべて訳出するというまったくの離れ業がなされているのもすごい。
一般に、研究者が訳したとなると原文を尊重しすぎて堅苦しくなったり読み物としては面白くなくなったりする印象があるのだけど、この訳には全然そういったところがない。シェイクスピア研究者が実際に日本語で演じられることも考えて、シェイクスピアが当時の人々にとってどのように魅力的だったのかということが伝わるように訳すとこうなるのかという驚きがあり、え〜ほかのシェイクスピア作品もこのひとの訳で読もうかな〜という感じです
3/21
アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』(河出書房新社)
スロベニア出身のラカン派(ジジェク派)の哲学者、アレンカ・ジュパンチッチの快作。めちゃめちゃに面白い。スロベニア語版とフランス語版と英語版は自身の手で訳しているっぽい。怖いですね。
カントの倫理学をラカンが再定義して新たな倫理観を打ち出した、というのはラカンの「カントとサド」の存在を知っていればまあそうでしょう、という感じかもしれないけれど、本書ではさらにそこから推し進めて「リアルの倫理」と呼ばれるものを彫琢しようとする。
ただそこに至るまでのひとつひとつの章の議論が非常に濃密で、それぞれの論点がどれも本当に面白い。カント自身の中でも変遷や揺れのある倫理を巡る議論をラカンを通して――けれどもけっして教条主義的ではなく、批判的な仕方で――緻密に鮮やかに解き明かし整理する前半だけでも、ちょっとカントについて学んだことがある読者であれば笑ってしまうほどスリリングで、類を見ない強度がある。緻密なギリシャ悲劇の分析やラカンの諸々の整理についても、
ただ、結局最後の章で提示される「リアルの倫理」について、私にはこれが倫理なのかどうかどうしてもピンとこないところはある。どのような判断基準においても根拠づけられない瞬間において自身を貫くこと、そこにおける責任を取ること――こうであれば、デリダも好んだ「決断の瞬間は狂気である」というモチーフとも重ねることが可能なわかりやすいひとつの考えなのだけど、ジュパンチッチにおいては力点は行為というより欲動に、この欲動の構造それ自体の肯定にある。意識から無意識に議論のレイヤーが移ってしまうとき、それってつまり私たちはどうすればいいんですか? という議論がそもそも無効になってしまって、「べき」の議論から外れていってしまうので、倫理として「誰が」語れるのか、判断できるのかという部分も同様に曖昧になってしまう。まあ要はラカンの「汝の欲望に従え」が理解できないという話なのだけど。私たちの無意識、欲望や欲動は厳密に言語的にはコード化されていないので、何かしらの意味のある行動として象徴界をとおって何らかの行為がなされるとき、それが純粋に欲望を体現しているものであることは原理上ありえないと思うのだけど、だとすれば特定の行為を指してそれが欲望にピュアに従った結果であると誰も言えないのではないか? と思ってしまう。ここがどうしても突っかかってしまって、「汝の欲望に従え」を倫理的に実践に落とし込むことはできず、ただ批評家が外からやいのやいの解釈できるだけなんじゃないかという気がしてしまう。今年出版されたばかりの、目次を見るかぎり『リアルの倫理』とかなり議論立てが似通っている桑原旅人『汝の「欲望」に従って行為せよ: ジャック・ラカンの倫理学』という本があるけど、これとか読むとわかったりするのでしょうか。
本書の訳の冨樫剛さんは専門はイギリス文学の方らしいのだけど、たとえば訳者あとがきを読めばわかるように、英語圏における邦訳されていないラカン派の動向の解説であったり、アラン・バディウの著作にも踏み入って本書の解説ができるという時点で只者ではないことは確か。本書の翻訳は村山敏勝さんからの紹介だったらしく、冨樫さんなら確かだろうという信頼もあって訳されたのだろうと思う(たとえばコプチェクの『〈女〉なんていないと想像してごらん』のあとがきにも読み合わせに参加してコメントをくれた...みたいに名前が挙がっているし、そういうラカン派のネットワークがあったのだろう)。実際私が読んだ限りではカントの語彙もラカンの語彙も適切に訳されていて違和感はなかったし、非常に読みやすかった。
ちなみに本書については、小泉義之氏の書評を以下のWebアーカイブから見ることができる。いわく、「本物である。ジジェクが序文を寄せて、「私ともあろう者がこの著者に先を越されるとは! こんなヤツは、本なんか書く前にさっさとくたばってしまえばよかったのだ!」と書いているが、ジジェクはマジである。カント論とラカン論においても、文学論においても、本物である。現代思想が閉塞していると感じている人、そこから抜け出したいと思っている人に、広く読んでほしい書物である。」私もまったくの同感なのでおすすめです。
https://web.archive.org/web/20160313201801/https://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/2009_2_2.doc
3/30
例えば炎初単独「~エレガンス×傀儡兄弟×例えば炎 スリーマンライブ~「ワレワレハタトエバホノオダ」
去年のM-1の敗者復活戦で大きな活躍を見せたり見せなかったりした例えば炎の初単独。例えば炎好きなんですよね……。漫才もしてコントもして幕間Vもあってと思ったよりいろんなことをしていてびっくりした。かなり満足感がある。
例えば炎が好きな後輩とこの前「例えば炎がM-1で優勝したら次の年も出て、決勝に上がるも全然舐めすぎたネタやって軒並み低い点取って帰ってほしい」みたいな話をしたんだけど、そんなことが起きたら本当に面白いので起きてほしいですよね。
3/30
『さなのばくたん。 -をやろうと思ったら異世界に転生していた件について- Powered by mouse』
よかった~~ きらめく絆創膏とかいうヤバそうな曲が上がってたのでリリースはここからかなと思って見たんだけど、そうじゃなかったんですね ともあれかわい~楽し~うれし~という感じで非常によかったです
3/31
アニメ『ダンジョン飯』1期(全24話)
お、おもしろ~~~ 全話出揃ってるものかと思ったら2期がまだだったのでめちゃ待ち状態です
4/11
映画『カサブランカ』(1942)
面白い! 第二次大戦中のフランス領モロッコのカサブランカを舞台にしたラブストーリー。複雑な政治情勢のなかで揺れ動く人間模様を、けれどもストレートに鮮やかにあらわしていて、え~~いい映画ですね。台詞のひとつひとつも洒落ていて、たとえば「今日カサブランカが1941年の12月なら、ニューヨークは何時だ?」といったぱっと聞いて意味が通りづらいような、ざらついた質感を持った台詞が効果的に使われていて、ただのエンタメに収まらない非常に豊かなものを感じます。ウォルシュだなんだと名前を挙げて白黒映画が好きみたいなことをいうひとを見ると「スノッブがよ……」という気持ちになるものだけど、これはとにかく鮮やかで素敵でよかったです
4/22
貴志祐介『黒い家』(角川ホラー文庫)
じめじめとしたサイコホラー。ホラーは未知のものとか人智を超えたものの恐ろしさを描くものも多い一方で、ひたすら地に足のついた、この世に存在しうる嫌な存在を描くことでじわじわと恐ろしさを演出するのがクレバーで、実際怖い。外堀を埋めるように使われるのも社会心理学といった領域にとどまって、人文的な語彙や雰囲気は微塵もない(学問的なものへの扱いが妥当な範囲に収まっている)のが、スノッブとまではいかない、クレバーな感じ。貴志祐介さんの作品はたしか中学生のときに悪の教典を読んだきりだったんだけど、たしかにこういう種類のクレバーさがあったなという記憶が蘇った。清涼剤てきに主人公とヒロインの恋愛模様が作品のバランスを取っていて、これはまあ...って感じです
3月、4月の振り返り
いまみると(多少書いてないものもあるにせよ)あまりに摂取したコンテンツが少なくて驚くんだけど、3月はLet Them Rotの序文と序章を翻訳して、ジュパンチッチ(ズパンチッチ)の紹介文をあわせて書いたものを公開したりしたし、4月はボカロ曲のリミックスを投稿したりしていたので、おおよそ忙しかったという言い訳は立つかなと思う。4月にほぼまったく何も書いてなかったのはほとんどずっと動画に使うイラストを描いてたからで、その間にはラジオとか音楽とか、いろいろ聴いてました。黒い家はaudibleでイラストを描きながら読めたので、なるべくこういう使い方は継続していきたい。