トラペジウム、あるいはハッピーエンドの条件
ある作品に歪んで見える構造や精神性が留保なしに描かれているとき、作品と受け手の間にはつねに緊張感が蔓延する。そのとき読者/視聴者は必然的に、息が詰まりながら、どうやってその不均衡を崩し、どこにカタルシスを持ってくるのか、何をもってそれをカタルシスとするのか、という部分を気にしながら見ることになる。このような態度でトラペジウムという映画を鑑賞していた私は、この作品に、エンディングに至るまでカタルシスと呼べるものが存在しなかったことに少なからず驚いた。すべてが東ゆうの見える世界で構成されていて、成長した東ゆうが振り返って見れば理解できる挫折や困難しか存在しない、という構造は、ほかに類例がないほど徹底されているように見えた。
全部手に入れないと気が済まないタイプで、そのためにあらゆる手段をためらわない女の子が、挫折を経験しながらも全部を手に入れる、というこの非常に単純明快なストーリーにおいて、主人公の東ゆうは何も失っていない。失ったものも糧にして失っていないことにした強さを描いているといえば確かにそうかもしれないが、「失ったものは取り戻せないけれどそれ以上に大切なものに気づけた」ではなく、失った友達とは全員仲直りして、失った芸能人生は同等以上のキャリアにつけた、という点で、復元不可能な形では何も失っていない。もちろん、それでも復元不可能なものは原理上存在しうる。ただ、実際作中において、復元不可能ななにものが画面上のどこかにでも描かれていただろうか?
たとえばご都合主義てきにカメラマンのクラスメイトが有名になったりみんな各々の価値観で幸せそうに生きている未来になったからよかったものの、眼鏡くんがカメラマンとして世間的にヒットしなかったら大人になった東ゆうはまったく見向きもしないだろうし、東西南北(仮)のメンバーの誰かが明らかに落ちぶれて貧しい暮らしをしていたり、本人は幸せそうだけど明らかに(ゆうの思う)一般常識と外れた趣味に傾倒していたりしていたら、東ゆうは同窓会には呼ばずに陰口を言うだろう。その意味で東ゆうは他者を許容できるだけの精神的な成長をしているようには見えなかった。最後「トラペジウム」とタイトルをつけられた大判の写真を見て喜ぶ東ゆうは、ただ昔の写真を懐かしんでいるのでもなく、友達とそれを見られたことをただ喜んでいるのでもなく、「出世した友達の個展に呼ばれて、昔の自分(たち)が綺麗な絵で展示されているのを、胸を張って友達と呼べるだけの人生を歩んでいる友達に囲まれて一緒に見ている芸能人として成功した私」というひとつのシチュエーションに感動しているように見えて、あまりにも、東ゆうの歪みがそのままに表現されすぎていると感じてしまった。
たとえばラストシーンがこうではなかったら。たとえば見晴らしのいい海でロケをしている大人になった東ゆうが、撮影の休憩がてら近くのアンティークショップに入る。すると店主は偶然にも昔のカメラマンくんで、昔話に花が咲く。彼はプロとしての写真の道は諦めたのだという。でも私は好きだったよ、君の写真。続けてればよかったのに、なんて無責任なことを言いながらゆうはカウンターの奥の小さな写真立てに目をやると、ニヤリと笑って、それって売り物? と聞く。彼の方も、売り物じゃないけど、君にあげるよと笑って写真立てを手渡す。10年前に現像されてすっかり色褪せた写真には、文化祭で撮った、当時の四人が楽しそうに笑う姿が写っている。たとえばこういうエンディングだったら、ちょっとどころでなくびっくりしたと思う。でも、少し悩みながら、なんだかんだでハッピーエンドだったねと評価したと思う。
そう、私はトラペジウムのラストについて、ハッピーエンドだとは思えなかった。映画のラストシーンに描かれているすべてが、世間的な成功という要素を無邪気につなぎ合わせただけにしか見えなかった。東ゆうがそうしたシチュエーションに幸せを感じるだろうことはこれまでのシナリオから当然予想はできる。けれど、その価値観をなんの留保もなく称揚して終わるはずがないだろうと思っていた。だって、価値判断を世間的なものに委ねたままの主人公が幸福な未来を過ごす文学はないじゃないですか。その先の破滅がありありと浮かぶ輝きをハッピーエンドとする無邪気さに、心底恐ろしさすら感じてしまった。
けれど物語のすべての筋はこの無邪気な結末に向けて、逆算されたように作り込まれている。すべてが東ゆうに理解可能で、振り返ってみれば成長を促す言葉や人格としてのみ登場する。その意味で「いまの東ちゃん、変だよ……」も東ゆうの母親が落ち込んだゆうに語りかける「どっちの部分もある」も台詞として等価だ。東ゆうの心をくどいくらい反映するように天気が晴れたり雨が降ったりする、見え見えのシンボリズムといって差し支えない美麗なアニメーションも、このひとつの全体性に寄与している。そうして形作られたこの映像は、たしかに出来はいいのだと思う。しかしその「出来のよさ」が形作っている作品全体の構造が私には歪んで見えた。この歪みのなかで輝いている限り、私はそうしたものを「趣味が悪い」と感じるのだろう。